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ハロウィンのケルト民族の宗教と生活

ハロウィン文化の起源となる重要なケルト民族の宗教と生活を知ると、ハロウィンで仮装することの発端が理解できます。キーワードは、「自然信仰」です。

エジプトやギリシア、ローマなど、同時代の文明との比較で、ケルトの存在を際立たせるものとしては、その宗教性にあります。エジプトでも、ギリシアでもローマでも、神々のために大きな神殿を建てて、神々の存在感を知らしめたり、王のための巨大な墓が立てられるのが通常ですが、ケルトの宗教に関しては、なぜかそうした巨大な宗教的建築物がほとんどなかったのです。それは、必要がなかったのであり、その代わりに自然の中に神聖なものを見つける自然信仰だったのです。緑や森や泉や河や湖が、ケルトの信仰の対象たるものだったのです。

そこでは、日本の古代ケルトアニミズムとよく似たケルトの宗教は、神官をドルイドといい、一般には神官の名前そのままでドルイド教と呼ばれるようになっています。霊魂の不滅を信じて、400以上の神々が存在すると考えられていて、部族によっては、神々の名前が少々違っていることはあったが、どこの部族であっても、主神となっているのは、「テウタテース」と呼ばれる神です。テウタテースは、ケルト語で「国民的な」という意味を持ちます。この神だけは、欧州各地のケルト部族すべてが同じ名前であったと言われています。

この神と向かい合うことができたドルイドは、絶対的権力を持ち、身分は軍の隊長と同じか、それ以上のものを与えられていました。ドルイドは、占いを通じて神の信託を伝え、部族の重要決定から争いごとがあった場合には、裁判官としての役目を受け持つこともありました。ケルトの祭礼はキーワードとなる「樫の木」の森で行われ、時に首を刈るなどの人身供養もあったと言われています。

森を信仰の対象にしていただけに、人々の暮らしにも、木に依存している生活になっていた。鉄器で作った斧やノミ、鋸などは、木工職人の技術を向上させ、中でも樽作りの技術は素晴らしく、ワイン用として、ローマもケルトの樽を欲しがったほどの出来合いでした。住居は、木材で骨組みをした上に泥を塗って、壁を作り、かやで屋根を作りました。
また、木材は船にも使われ、大陸のケルトの民族は、ローマ河やセーヌ河を運河として、利用し、イタリアで購入したワインの運搬にも良く使われたと言われています。

このようにハロウィンに深い縁があるケルト民族は、自然信仰の結果して、自然に木に依存する生活がうまれました。

ケルト民族の影響を受けたハロウィン

キリスト教徒とケルト民族の文化の影響を受けているハロウィンですが、ここで、ケルト民族とはいったい何という疑問が生じるかと思いますので、これからまとめていきたいと思います。
ハロウィンは、ケルトなしには、語れない文化であり、祝祭なのですが、多くの人はケルトのことをほとんど理解できていないので、是非このハロウィン衣装を着て仮装したりする機会にケルト文化について理科を深めて、興味を持ってもらえればと感じます。よりハロウィンが大好きになり、同時に文化も知ることができ、教養も深まり、ひょっとすると、スコットランドやアイルランドに旅行に行きたくなるかもしれません。

面白いことに、日本の教科書には、”ケルト”という言葉が2回しか出てきません。なのでケルトのイメージが全く湧くはずがないのは無理がありません。ただ、「ケルト」といえば、ミステリアスな雰囲気やイメージが多く、同時に多くの魅力もあります。例えば、石に掘られた曲線の絡まる文様や精霊信仰などは一例になります。

高校の教科書を見てみると、ケルトという言葉が出てくるのは、2回ですが、一度目は、カエサルがガリア(今のフランス・ベルギー地方)に遠征した「この地のケルト人を平定した」とかかれているだけです。そして、2度目は、「アルプス以北のヨーロッパには、前6世紀ころからケルト民族が拡がっていたが、ゲルマン民族は彼らを圧迫しながら四方に広がった」(山川出版の世界史B詳説から)だけなのです。両方とも、主語レベルでの扱いではなく、ヨーロッパ大陸を席巻することになる別の民族を中心にした章に、引き立て役として、ほんの一瞬出てくる程度です。

カエサルが代表する場所のローマやゲルマン民族は、共に現代にいたるまで、世界に影響を与えてきた国であるのは間違いないが、その陰には、教科書に書かれていないケルト民族の魅力が知られないままになってしまっている。ケルト民族の歴史や起源や宗教や生活などを次回にまとめていきます。

ケルト民族のアニミズム的な習俗が見えてくると、ハロウィンの仮装が時代を超えて、自然な流れで受け入れられます。現在の商業的ハロウィンイベントと同時に歴史のあるハロウィンを2つ見ることができると感慨深くなります。

ハッピーハロウィン!

ハロウィンの祝祭の根源

ハロウィンの祝祭を始め、中世ヨーロッパの有名な祭りの多くは、一見すれば、ほとんどキリスト教にまつわる祝祭となっています。

しかしながら、そのルーツを調べてみると、面白いことに、キリスト教以前のアニミズム的な習俗(すべての存在するものに霊魂が宿っているという視点)が基盤となっていることが明らかであり、それは、キリスト教とそれ以前の古代の習俗の間に、長い葛藤と融合の歴史があったことをものがたっています。このことを認識するだけで、ハロウィンのイベントの位置づけやあらゆる祝祭の位置づけが明確になり、ハロウィンに対しての理解や認識が容易になり、深く理解できます。

わかりやすい例として挙げると、ハロウィンのシーズンの後のキリスト教最大の重要なクリスマスの祝祭として、主イエス・キリスト生誕を祝いますが、このルーツは、ヨーロッパ各地の冬至祭に認められます。まず、キリスト教伝播以前の古代ローマ帝国時代では、太陽信仰が盛んであり、それに由来するサトゥルナリア祭が祝われていました。大地をつかさどる農耕神であるサトゥルヌスは、「死の太陽」といわれ、「夏の太陽」との対極に位置づけれていました。古代ローマでは、この神をなだめ、春の再来を祝サトゥルナリア祭が、太陽の一番弱くなる冬至かその直前の「17日から23日までの7日間(フレーザー)」において行われていました。その祭に、生贄が大地に捧げられ、「死の太陽」の復活が祈願されましたが、この古代の冬至祭は、民衆の最大の祭りでした。そして、サトゥルナリア祭は、やがて復活祭前のカーニバルに移動されて、クリスマスとルーツを共有することになります。

以上のように、太陽は、万物の生命力の根源であるので、古代のアニミズムでは、信仰の中止をなしていました。また古代のインド生まれで、ペルシアから古代ローマへ流入したミトラ教も、典型的な太陽信仰が盛んな宗教でした。これは、紀元前の4世紀ごろまで、ローマの国教として人々に大きな信頼をえて過ごしていました。ミトラ教も12月25日の冬至を太陽再生の日として、祝日にしていたことは、太陽信仰からみれば、当然でのことでした。

このような、太陽信仰によるものや中国の二十四節気の冬至12月22日、秋分の日9月23日、夏至6月21日、春分の日3月21日という日が、より意味を持っていることが分かります。
現代のように、季節を10月31日のハロウィンや12月25日のクリスマスとして認識すると、その祝祭とのつながりの意味や歴史など本質を見逃してしまいますが、季節の節目ごとに大きな祝祭が行われるという視点だと、古代から中世までの祝祭と伴った生活が実際に見えてくる気がします。

さらに、ハロウィン衣装で仮面をつけたり、仮装したりする意味も由来や歴史を見ることでつながりが見えてきます。ハロウィンの祝祭を紐解いて、分解すると、一つ一つにそれぞれ意味があることがわかり、大変面白く、興味深く感じます。ハロウィンの仮装に関係してくる仮面の歴史についてもこれから更新していきたいと思います。